その人は強く、頭の良い人だ。ばばぁ、と呼ぶにはあまりに不適切な僕の祖母である。
文学少女で物知りであった祖母は戦争当時から当時の日本の政治に否定的で、多くの国民が竹やりでB29を落とす練習をしてる中、「ばかばかしい」と一蹴し、「日本は負ける」と公言していた。ある意味では非国民と呼ばれても仕方ない状況であろう。バリバリに国の仕事を行い、「鬼畜米英、うちてしやまん」タイプのあのじじぃと、当時の状況下で折が合ったとは、僕にはどうしても思えない。祖母は後妻であったし、あのむちゃくちゃなじいさんが相手だ、嫌な思いを多くしたであろうということは想像に難くない。そんな中、祖母が考えていたのは、いかにしてこの戦争を生き残るか、お腹の中にいる僕の母と3歳になったその姉を、いかに守るか、ということであったのであろう。
あの夜、東京が火の海になったあの夜。祖母は、3歳の姉、そして臨月になっていた僕の母をお腹に抱き、この時期の冷たい川の中で一晩を過ごした。国は、例の竹やり訓練に参加した人々に対し、「もし空襲が来た場合は、近くの学校のプールへ非難するように。」という指示を出していた。しかし祖母は、「流れのないプールなどに逃げ込んでもすぐに釜茹でにされてしまう。」という判断で、川で一晩を過ごすことを決意した。(この判断は正解であった。事実、学校のプールでは多くの人がお亡くなりになってしまった。)
想像して欲しい。3月10日の一夜を、もう10ヶ月にもなる身重で、片手には3歳の子供を抱き、命の火を必死に守り通した、その母の強さを。時代に流されず大局を見据え、見事に命を紡いでみせたその聡明さを。
僕はこの話を母から聞くにつき、自分が今いかにして生かされているのか、生きていて当然と思っているその当然が、いかに小さい可能性の元に存在していたのか、と思い知らされるのである。
と、ここまで書いてきて、皆様には誤解しないで欲しいことが一つある。僕は決して、当時戦争に参加していた人々を、例えば竹やりの訓練を行なっていた人々を、「愚かだ。」と言っているわけではない、ということだ。。まがいなりにも大学で勉強をし、当時の本も読み、そしてなにより運良く、僕の住む下町には戦時中の状況を生の言葉で語ってくれる先人達―おじいちゃん、おばあちゃん達が多くいたおかげで、僕の中では少しづつではあるが、その当時生きた人々の情景が掴めつつある。僕の住む地域は、東京の中でも最もひどい被害受けた。焼けなかった家などない。多くの人があの一夜で命を失った。生きたい、という意志は誰でも変わるものではない、子供への愛も、変わるものではない。愚かな人間など誰一人として(おそらく我々庶民のレベルでは)、いない。ただちょっと、ただ少しの運の差で、人の生き死にが決定されてしまう。戦争とはあまりにも無慈悲で忌むべき存在である。
その中で祖母が、見事に3つの命を守りきったことは、ほとんどが僥倖と言っても過言でないほど運が良かった、そう言うしかないだろう。その大いなる運に比べれば小さきことかもしれないが、それでも僕は批判覚悟で伝えたいのである、祖母の「生きようとした意志と知恵」―その素晴らしさとその凄さを。
もし、もし祖母が、当時の状況と周りの声に流され、何も考えず、あの晩プールに飛び込んでいたとしよう。おそらく僕はここにはいないだろう。
「周りの流れに反しても、自分で考え、自分で行動する。」
結果は、どう転ぶか分からない。祖母は運が良かっただけかもしれない。ただ、その意志と知恵を、果たして自分は持ち合わせることが出来ているのか、と思う。現代は、戦争中に比べ、無慈悲に未来が奪われる機会は遥かに少なく。一方で、自らの意志と知恵で、自らの未来を切り広げられる可能性は遥かに大きい。戦時中の状況に比べれば、遥かにぬるい現代で暮らせているくせに、自分の頭でものを考えようとせず、ただ周りに流されていないか、と僕は自問自答するのである。
そう、戦争というもの是非や責任は、個々で考えればよい。ただ、敢然とした事実として、その先人達のおかげで今は我々はここで生きていることが出来ている。その事実は、語り、紡いでいかなければならない。その上で、判断は自分で行なえばよい。僕はそう思っている。
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(途中からだいぶ話が反れた上に、僕の文章力が足りない、というか自分の中でもうまく整理がついてないゆえ、大変読みづらく誤解を招きやすい文になってしまい、申し訳ありません。ただ、やっぱり下手でも「語り紡ぐ」ことが、僕は重要だと思うし、しなければいけないことだと思うゆえ、駄文を繰り広げてしまいました。ここまで読んでくれた方、どうもありがとうございました。)