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前回の記事ではおちゃらけて書きましたが、
「いじめ」と「てんぱ」、これはあながち関係のない話でもなく、
人がなぜ「いじめ」をするのか、ということを考えると、それは「自己の肯定」であると思うのです。つまり、「他者を否定することにより、自己を肯定する」という実に理不尽な思考の下に「いじめ」は発生するのではないかと。
多くの人間、特に子供達は、自分が多数派に属することで安心を得ます。なぜなら彼らは「自己」というものが確立していないから。かよわい自己を、自分ひとりの力で肯定しきることが出来ないから。
例えばの話。「天然パーマ」、というものは日本においては少数派となる存在です。で、小学生などは「天然パーマ」の人間をからかうわけです。そして、からかっている方はそれで優越感を得、こう思うわけです、
「僕は仲間外れじゃない、僕はここにいていいんだ―」、と。
これはまさに「自己の肯定」であるわけです。相手を下げることにより、自分を上にし、「自己の肯定」の確認を行なっているわけです。
「いじめたつもりはない」―よく聞くセリフです。そうだと思います。いじめた側にとって、相手なんて誰でも、どうでもいいです。彼らの目的たるところは「相手に嫌がらせをする」ことではなく、「自分が優越感を得る」ことなのですから。
いじめる、という行為が「自己の肯定」によるものであるなら。いじめられる側は徹底的に「自己の否定」を行なわれることとなります。
考えてもみて下さい。「自己」というものが確立していない子供が、周りから徹底的にその否定を行なわれたらどうなるか?
僕は、
天然パーマが原因ではありませんが、子供の頃にまわりから総スカンを喰らったことがあります。それがいじめというのかは分からないですし、今思えば自分でも生意気なガキであったと思います。
幼い頃に自己を否定された人間は、結局大人になってもその経験を払拭することが出来ません。常に人の顔色を気にし、「自分がここにいてもいいのか」と考えます。
かくいう僕も、普段は飄々としているつもりですが、ふとしたときに、心の中の暗い、深い部分から、突如顔をあらわす“それ”に恐怖し、逃げ出したくなります。そして逃げます。
どこかの大臣が、
いじめの予告の手紙を寄こした子にこんなことを言ってましたね。「君をことを見てくれてる人がいる。だから死なないで。」、と。
多少語弊がありますが、僕はそうは思いません。世界は、自分が思っている以上に自分に無関心です。ここで誰かが死んだとしても、おそらく1ヶ月もしない内に、多くの人からは忘れ去られてしまうでしょう。
だから、だからこそ思うのです。
「死んだら損じゃん」、と。
クラスのいじめられっ子が死んでいじめがなくなる。
クラスのいじめられっ子が転校していじめがなくなる。
どちらにしろ世界が無関心ならば、死なない方を選んだほうが絶対に得なはずなんです。どうせ世界が無関心ならば、恥ずかしくても、泥臭くても、なんでもやっちまえばいいんです。
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